藁蛇日記

魔物や疫病を防ぐ関東の藁蛇行事を採録していきます

千葉県香取郡多古町牛尾(下郷)/白幡社

 今回は多古町下郷の事例を揚げます。毎度のことですが、まずは先回の川口市木曽呂の訂正から始めます(汗)。前書きの「捕捉」→「補足」、fig,06の「電柱脇何へ」→「電柱脇へ」です、注意不足ですいません。

 ここ白幡神社の蛇体は上郷と同様、出雲神話の八岐大蛇(やまたのをろち)をモデルとする極めてユニークなものです。

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  白幡神社の「白幡」は、平家の赤旗に対する源氏の白旗に由来するのは御存じの通り。山武郡白幡町の白幡神社の記録には、治承四年(1180年)、石橋山の戦いに破れた源頼朝安房に逃れて源家累代の家人上総介平広常(一宮城主)、千葉介平常胤(千葉城主)等と兵を興し、同社に参籠して白幡に願書一通と矢を添えて源氏再興祈願をしたとある。 白幡と名に付くのは千葉県に多いが、藁蛇を掛ける川崎市宮前区平の白幡大神も同様にこの故事を由来とする。 『千葉県神社名鑑』は、ここ牛尾の白幡神社創建を大同三年(808年)十一月十五日と記す。平安末期、多古地方(千田莊)を領有していた千田親政が平常胤に滅ぼされると、その後数百年は常胤一族が支配している。常胤は桓武平氏良文流で、この良文は関東平氏の祖であり、藁蛇日記上では埼玉県秩父市大宮の秩父神社や同蒔田の椋神社に深く関係するキーパーソンである。

 開村は大同二年、以来神社は「おぼすなさま」と呼ばれて白幡山に鎮座する。ムラは四つのクルワ(組)に分かれていて、当番組のヤドで1週間ほど前から作り始め、前日には胴体を作り上げる。「じゃ祭り」とも言い、蛇体の呼称は「じゃ」である。八つの頭を持つ凡そ7~8mの全長である。

 例祭日は11月15日。当日が日曜以外であれば、その直前の日曜を例祭日としている。本来は太陰暦の11月に収穫祭としていた。

 当日朝は上郷の祭りで、下郷では12時20分頃、神社向かいにある集会所から蛇体が担ぎ出される。しばらくは道路上で暴れ廻る。担ぎ手はお神酒で酔っ払っているから、なかなかの千鳥足ならぬヲロチ足(笑)である。 12時30分頃、鳥居を潜って急階段を上り、山上の拝殿前にある庭でもう一度暴れて見せる。40分頃、蛇体は拝殿に安置。見物者には上郷と同じく多古米の美味しいおにぎりが配られる(喜)。ついでに名物の墨塗りが見物者を襲う(笑)。その後、担ぎ出された蛇体は、13時40分頃、二の鳥居に巻きつけられて終わる。

 

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fig.01) 神社前景  fig.02) 集会所     fig.03) ヲロチ足(笑) fig.04) 階段を上る

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fig.05) 蛇体を待つ拝殿   fig.06) 階段を走り上がる  fig.07) 拝殿前で暴れる

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fig.08) 急斜面上の鳥居に掛ける fig.09) 怖いような…  fig.10) 美味しいなぁ

 

主要参考文献)

・「多古町史 下巻」多古町編さん委員会/1985.07

・「千葉県神社名鑑」千葉県神社庁/昭和62年12月

・「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所/大正10年3月

・「多古の民俗 昭和五十年調査報告書」多古町教育委員会/昭和51年3月

・「房総の祭事」千葉縣神社庁特殊神事編纂委員会/昭和59年12月

・「藁蛇の道 -房総周辺の事例を中心に-」秋山笑子/千葉県立大利根博物館研究報告 第7号/平成

・「白幡八幡神社の祭礼と民俗」古山豊/千葉県立山農業高等学校研究紀要「あゆみ」第6号/平成8年3月(千葉縣山武郡白幡町所在の神社)

埼玉県川口市木曽呂

 藁蛇ファンの皆さん、今日は(笑)。 先回の幸手市惣新田上沢目木で、fig.04)の埼玉の祭り記載写真とfig.08)の問題の電柱について少し説明不足でしたね。 受楽庵横にある藁蛇が、以前はその斜め向かいにある電柱に置かれていたというのを捕捉不足でした。この電柱は現在、補強支線(ワイヤー)が設けられているのですが、この黄色いカバーに可愛い雀の巣があったりします(喜)。 

 さて、今回も期待を裏切って(え?)、埼玉県は川口市の例を挙げることにします。

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 川口市木曽呂の藁蛇行事は、毎年7月2日に行われる「シメハリ」と呼ばれる。 

 ムラ(注01)の鎮守は朝日神社であるが、元は氷川神社といい、応永三年(1396)に創建された。社号の由来は明治四十年から同四十四年にかけて、木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六つの大字の各神社を合祀したことに因んで、合祀の遷宮祭を執り行った十月十日の四文字を分解して「朝」を用いた名とした。

元より、木曽呂ではシメハリ(注連張り・注連飾り)という行事を行っていたが、これは旧氷川神社の疫病除け神事由来のものであろう注2)。   一区(南側)は地区内の天雲神社の注連縄を新調し、ここ二区(北側)は木曽呂入口に当たる道に跨る注連縄を掛けていたが、昭和四十年ころから通行車両の邪魔になるとして、道の両側に竹に巻きつけたものを立てる形にしている。注3)

 行事は午後一時ころから始まる。材料や道具を持ったムラ人が集荷場に集まる。集荷場は木曽呂交差点際にあり、伊勢屋酒店の斜め向かいにある。二体の藁蛇の綯いは三時ころには全て終了して道に掛けられる。 蛇体は5m強で、ケバ(鱗)の立ち具合も良く、威勢のある見事な藁蛇である。

 七月十六日には、交替となった新年番が取り外してしまう。 戦前は川に流していたが、現在では燃やしているという。 なお、行事終了後は伊勢屋の美味しいお神酒で宴会だろうな(笑)。

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fig.01) 坐業場所全景        fig..02) 作業に勤しむおっさんズ   fig.03) なかなかの力作

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fig.04) 梯子で捩じる fig.05) 見つめ合う  fig.06) 電柱脇何へ fig.07) 大変な作業  fig.08) 登り龍だね

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fig.09) 頭部の造作。 眼は無い          fig.10) 道の両脇に掛ける。 電柱は垂直です(笑)


脚  注)

・注 1) 当ブログでいう「ムラ」とは、昭和以前の村落・農業共同体を指す。 藁蛇はこれら共同体の構成員によって丁寧に作られ、祀られて、その地域の平和と繁栄に寄与したものと解される。 

・注 2) 氷川神社祭神の素戔嗚命神は幾つかの理由から、牛頭天王と習合して疫病除け・鎮圧の祭礼に祀られてきた。平安ころには「桜の散りかふころは 疫神の多く飛散して」と春の疫病祭祀が多かったようだが、この祭礼(氷川神社や天王さまの祭礼)は七月十五日が多い。

・注 3) 確定はできないが、これは関西や千葉南部に多い綱吊り形式のふせぎ行事だと思う。そうであれば、その綱には小型の龍が吊るされていたとも考えられる。


主要参考文献)

・「川口市史 民俗編」 川口市史編さん室/昭和55年3月

・「埼玉の神社  入間・北埼玉・秩父」埼玉県神社庁/昭和61年4月














 

埼玉県幸手市惣新田上沢目木

 今回は、幸手市です。 あれ?、多古町牛尾の続きじゃないのか…、そうなんです違うんです(笑)。 幸手はもう二十年以上も前から通っている藁蛇の宝庫で、広い耕地のどこに「生息」しているのか、手探りで探すしかありませんでした。 この上沢目木の他に、上宇和田、神扇、平須賀中株、下吉羽、九郎衛門、菱沼、平野、戸島…とあって、夫々に2~4体ほどの藁蛇が見られました。 ただ廃絶した処や数を減らした処も多く、去年まで見られたのが今年はない…と絶望に陥ることもしばしばでした。 乾いた田圃に水が張られ、土手沿いに菜の花が咲くころ、生まれる藁蛇が多いのですが、呼んでも返事はありません。 行事が終わると、にょろにょろーっとムラ境に行ってしまうため、車載した折り畳み自転車で追いかけたこともありました。 今回の上沢目木は三体なのですが、どうしても一体だけが見つからず、とうとう3年もかかって発見した次第です。 藁は風景に同化し易いですからね(汗)。

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 上の写真はケハ立っているのですが、これは蛇の鱗です。 眼と口、耳(角)があり、異様な形態ですが、これは私が幸手型と呼ぶものです。 全長は2m弱で三体がムラ境に置かれます。

 幸手市惣新田は、寛永十七年(1640)の江戸川改修によって下総国から武蔵国編入された。惣新田の開発はこれを機に次々と開発され、下総国一宮である香取神社を鎮守とする処が多い。 惣新田の鎮守は天神社であるが、これには二つの説があり、一つは大昔の洪水の際に、中川上流から流れて来た御神体を天からの授かりものとしたというものと、寛文年間(1661-73)に江川村(現在の五霞町)から移住した山田庄五家が鎮守として崇めていた天神を勧請したものという説である。 

 藁蛇行事は天神社ではなく、その裏手にあたる受楽庵と密接な繋がりがある。五月一日、受楽庵で百万遍を唱えた後に藁で作られてムラ境の辻に置かれる注01)。 この受楽庵は今から160年ほど昔、ムラ内に博打が流行ったことがあり、役人の責めを逃れるために名主が一代限りの僧として出家したという言い伝えがある。 現在は秩父から来た尼僧か務めている。

 この五月一日という日付が怪しい。 2015年と2018年に行ったものの何もなかった。 受楽庵の温和な尼僧さんに伺った処、話し合いによって曜日を決めるということであり、2018年は第一日曜ということだった注02)。 後日、訪問した際、受楽庵裏の一体(①)と用水路脇の一体(②)はすぐに見つかったが、残る一体が判らない。 ②そばで農作業をしていた方に聞いた処、東へ行って突き当りを左に行けばよい、とのことだったから、散々探してみたが判らなかった。 その後も幸手訪問時には必ず探したが判らない。 ある時、グーグルマップであちこち探してみてようやく見つけた。 新4号国道の向こう側だったのだ(③)。

 なお、fig.04の写真にも悩まされた。 「埼玉の祭り・行事」という調査報告書にあったものだが、「上沢目木」とキャプションにあるだけで詳しくは記載がない。 これは2000年頃に見つけた資料だったが、上沢目木自体が判らずにいたので、しばらく手つかずだった。 苦節20年ということですね(笑)。 

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fig.01)  上沢目木の藁蛇配置

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fig.02)   天神社          fig.03) 受楽庵           fig.04) 埼玉の祭り記載の写真

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fig.05)  ① 受楽庵の脇      fig.06)  ② 南側       fig.07) 新4号国道の東。電柱左にある

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fig.08)  問題の電柱   fig.09) 頭部の造作

 

注  記)

注01) 「幸手市文化遺産だより VOL17」には、大蛇づくりの後に百万遍を行うとあるが、尼僧さんのお話と「埼玉の神社」記載によると百万編後に藁蛇を作ることになっている。

注02) 他の藁蛇行事と同じく、作り手の問題から日曜に行われることが多くなっている。

主要参考文献)

・「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」埼玉県神社庁/平成4年7月

・「幸手市史 民俗編」幸手市教育委員会/平成9年3月

・「埼玉の祭り・行事  埼玉の祭り・行事調査報告書」埼玉県教育委員会/平成9年1月

・「幸手市文化遺産だより VOl17」幸手市郷土資料館/令和2年3月

 

千葉県香取郡多古町牛尾(下郷)/潮神社

 今回で二回目となります。 前回の後編ではないのか?、と言うあなた、甘いです。 なにせいい加減なもので(笑)。 考えるに、五か所の藁蛇行事に深い謎があると思っています。 埼玉県秩父市秩父神社、同 椋神社、東京都足立区高野胡録神社、神奈川県茅ケ崎市八雲神社、それと前回の茨城県稲敷郡阿見町の五か所です。 それぞれに解明すべき点があって、中々に筆が進みません。 前回の後編は、いましばらくお待ち願います。 今回は多古町牛尾の蛇まつりです。 上郷と下郷の二か所で行われるのですが、時間的には下郷の潮神社が先に行事を行うので、それから記述します。

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 多古町潮神社の所在は、旧地名で言うと千葉縣香取郡東條村牛尾區字淺間山になり、小山の山頂部に鎮座している。 文禄三年(1595)、新田開墾時の創立で以前は淺間神社と称し、大正七年(1918)七月に子(ね)野大神と稲荷神社を合祀した。

 この神社南方、徒歩数分に上郷の牛尾神社がやはり小山上に鎮座しており、両社とも毎年11月15日を例祭日として「蛇まつり」を行っている。元は陰暦霜月十五日に行われた豊穣感謝の秋祭りである。

 下郷側は11時から、上郷側は12時から始まるので、撮影は嬉しいほど多忙である。両社とも八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)伝説の影響下にあり、異形ながら八頭と尾剣を有している(注1)。神社に担がれて行く行列には伝説に登場する可愛い奇稲田媛命(クシイナダヒメ)役もいる(注2)。両社の行事ともに町の無形指定文化財である。なお、配られた多古米のおにぎりは旨かった。

前日に当番の家で作られて翌日朝、集会所に持ち込まれる。大体のスケジュールは以下のようである。

 09;50 集会所から神主が拝殿に来て、祭儀を執行する

 10;30 集会所で共食(神と氏子が食事する)

 11;00 集会所から蛇体が担ぎ出される

 11;15   蛇体が拝殿に至る。その後に拝殿内で担ぎ廻り、鳥居 に掛けられる

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fig.01)  集会所       fig.02)   蛇体を待つ拝殿 fig.03)   行列    

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fig.04) 神社外観     fig.05) 奇稲田媛命が進む  fig.06) 急階段を担ぐ

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fig.07)  拝殿内で暴れる     fig.08) 記念写真     fig.09) 独特な蛇頭

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fig.10)  蛇掛け              fig.11)  配られたおにぎり


補注)

・注1) ヤマチノヲロチとしての頭部は何とも言い難い形状をしていて、ヒゲのような部分が八頭を表しているのだろう。 尾剣は神話通りクサナギノツルギである。「天下泰平」「五穀豊穣」とある。

・注2) 古事記日本書紀で記述に相違がある。

主要参考文献)

・「多古の民俗 昭和五十年度調査報告」多古町教育委員会/昭和五十一年三月

・「千葉神社名鑑」千葉県神社庁/昭和六十二年十二月

・「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所/大正十年三月

 

 
 

茨城県稲敷郡阿見町鈴木区/前編

 皆さん、初めまして。 関東は片田舎に庵を結ぶオヤヂです。 ブログは初めてなので不安で一杯の小心者でもあります。 内容は、ムラ境や耕地の四隅、神社の鳥居などに掛けられて、疫病や魔物の侵入を防ぐスーパー注連縄=藁蛇を採録していきます。 年々減少の著しい行事ですが、未だ関東には70例余の「生息」を確認しています。 表記は「日記」ですが、かなりいい加減な雑記なので、その点は御寛容のほどお願い申し上げます(笑)。 なお、信州諏訪は縄文時代から続く謎の御左口神(ミサグチ)と、中世まで諏訪神社前宮で祀られていた恐怖の巨蛇についても考察してまいります。

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   阿見は霞が浦の西南部に位置し、霊峰筑波を望む葦に覆われた湿地帯であった。  江戸幕府はここを無領地としており、天正年間(1573-93)頃は大蛇がしばしば通行の人馬を驚かせ、また採草と水利について近隣間の抗争が絶えない土地でもあった(注1)。                その阿見原の一角に鈴木村が開かれたのは明治15年(1882)、開祖の鈴木安武翁は出羽国松山藩右筆鈴木久馬の長男として天保6年(1835)に生まれた。長じるに及んで脱藩し、文久2年12月(1862)、会津藩松平容保公が京都守護職に任じられると、その随行兵中に名を見出せる。その後は戦乱を掻い潜り、無事に帰藩した(注2)。明治に入ってからは開拓の申請を重ねて、ついに若栗村の一角に村里新設の許可を勝ち得た郷土の英雄であり、村(当時)の名は安武翁に由来する。                                                                            この鳥居に掛かる藁蛇の話は、開村の二年前、開拓申請がようやく下りたことに始まる。桂川沿いの八坪という土地から水田を作り始めたのだが、幾つかを埋め終えた処、隣の池から突如として土が空高く噴き上がった。人夫は驚いて逃散したが、暫くして見に行くと、草木が筑波山の方へ薙ぎ倒されていたという。池の主である大蛇が目を覚まして、下妻の大宝池に移ったのに違いないと噂が立ち、慰撫鎮魂のために毎年の祭礼日に鳥居に大蛇の形代を掛けたのが始まりとされる(注3)。 金比羅神社の由来については、寛政9年(1797)に讃岐の金比羅神社から若栗村住人が勧請したもので、野面に小祠としてあったものを安武翁が鎮守として祀ったのである。

   毎年11月10日は開村記念日で、祭礼が行われる。藁蛇が掛けられるのは、その直前の日曜の朝で(注4)、氏人は境内に集うと去年の藁蛇を鳥居から降ろして燃やす。綯うのに用いる稲束は「実取らず」の稲である。10時に小休憩。蛇体長は実測で5,5m、頭部長は約1m。11時前には蛇体と頭部を付け終わって鳥居に掛ける。

古老によれば、蛇体はあと1mは欲しかったとのことだが、fig.01)を見ると昭和62年当時の藁蛇はそれほど長くはなくて、太さも細いようである。 蛇体の特徴は、胴体と頭部をつなぐ際に切り残し部分をタテガミ(鬣)のようにしておくことで、立派な威厳のある外観となっている。 fig.06)には「眼」が付けられているが、これは焼酎一升瓶の蓋である。 余談だが、埼玉県の秩父神社田植祭で水口門に掛けられる藁蛇のそれは黒く塗られていて、それは銘酒「秩父錦」の蓋に違いないと密かに信じている(笑)。

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fig.01) 昭和62年のもの      fig.02) 同左            fig.03) 蛇体を縒って捩じる

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fig.04) 頭部の製作    fig.05) 実取らずの稲束  fig.06) 胴体と頭部の接合  fig.07) 鳥居へ掛ける

 

 後編は藁蛇の腹下に下がっている酒樽とそれに書かれている文字の謎および、この行事の余談に触れてみます。 乞うご期待です(でもないか)。

 

注  記)

注1)  天正年間頃は塙不動から阿見大竹橋までは葦の谷原で、伊勢守が士卒二百を率いて大蛇を退治し、鎮魂のために不動尊の天井に蛇図を描いたとある。(「阿見の民俗」p193)

注2) この間の状況については「阿見町鈴木区史」に詳しい。

注3) 土地や河川、沼の神としての大蛇霊を藁蛇行事にて鎮魂する例については、東京都足立区保木間の大乗院や埼玉県所沢市西新井の熊野神社などの例が知られる。 なお「鈴木区史」は、池の土が吹きあがったことについて、土の重圧が池にかかったために起きた現象であるとし、霞が浦湖畔に近い晴明川でも見られたもので、同川の改修工事では悩まされたという。 さらに、沼地の埋め立てに大人数が動員されたとして、湿地帯の中に付けられた足跡が大蛇のくねって退散した跡に見られたのではないかと現実的に解釈している。(「阿見町鈴木区史」 p55)

注4) 村人に尋ねてみても、祭礼日直前の日曜日で間違いないが、fig.01)と02)に写っている日付を見ると、「87.11.9」とあって、これは昭和62年11月9日であるから「月曜日」となる。 カメラの日付設定ミスでなければ、祭日直前の日曜日に藁蛇を綯ったのではなく、前日に拵えたことになる。 おそらく、これは他の祭礼と同様に、作り手減少の関係で以前は前日だったのであろうと解釈しておく。 

主要参考文献)

・「阿見の民俗 阿見町史編さん資料(7)」 阿見町史編さん委員会/昭和56年3月

・「阿見町鈴木区史」 茨城県稲敷郡阿見町鈴木区/昭和63年11月

・「茨城縣神社誌」 茨城県神社誌編纂委員会/昭和48年6月

・「阿見町史」 阿見町史編さん委員会/昭和58年3月

・「茨城の民俗 第18号 -蛇・竜の民俗特集ー」茨城民俗学会/昭和54年12月

・「風土記 日本古典文学大系岩波書店/1958.4

・「藁Ⅱ ものと人間の文化史」宮崎 清/法政大学出版局/1985.11